冬うらら吾輩君の庭散歩      山走子
ふゆうららわがはいくんのにわさんぽ

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「フォト×俳句」で一番のキモになってくる写真と俳句の響き合い。
何度も何度もここを考える。
先日も中谷先生の説明を聴く機会を得たわけだが。
まずは、俳句は俳句として写真は写真として独立している必要がある。
写真を隠したときに、横に書かれている俳句だけで意味が通ずるのか。
それが通じないとしたら響き合いにはならない。

ところで、俳句として独立している、写真だけで独立している。
ってのは、そもそもどういう状態なんでしょ。

今日アップしたこの作品はどうなんだろ?
ギリギリのところを狙って見たのだけど。

[俳句解説]
季語 冬うらら 時候 三冬
これは谷中での吟行句。
「吾輩君の庭」ってのは夏目漱石の「吾輩は猫である」の猫の縄張りを散歩したという意味。
散歩しているのは作者である自分という設定。
花鳥諷詠を詠む俳句にはなっていない。

これは、写真に「猫の作り物」と「谷中へようこそ」という幟を意図的に入れた。
とすると・・・この句は写真が無いと成り立たないと考える事も出来る。
そもそも、「吾輩君」ってなんだ?と言われればそれまで(笑)

では、この句で何を表現しているのか。って事になるけど。
「吾輩は猫である」で有名な谷中に遊びにきて楽しかったよ。って事。

そうすると、「フォト×俳句」でなくて「フォト俳句」かな。
現段階では個人的にはこれでも結構気に入っている作品ではあるのだが。

こういうのを作ってくると、またまた「俳句って何?」という疑問がふつふつと沸き上がるわけで。
とりあえず季語は入ってるし、17音の定型だし。
問題は・・・俳句として立っているかどうか。だ。
どうなんだろう?

やっぱり、こういうのって師匠がいないと分かんないな。
虚子先生も、とにかく一人の師匠につきなさいと書いている。

虚子俳句問答〈上〉理論編
高浜 虚子
角川書店
2001-08


この本は昭和11年から昭和18年にかけて、虚子の娘星野立子が主宰する俳誌「玉藻」に連載されていた虚子先生への質問とその答えを載せたものを集めた本。

面白いのは80年くらい前の人のもつ俳句に関する疑問と、今の私がもっている質問が全く同じであるということ。
そんなに変わらないのに妙に安心(笑)

そして、それらの問いに一刀両断に答える虚子先生が魅力的に映る。
自分の句の良否を判断する。という項目では
「・・・・その当座はその句が表している以上の感情がつき纏うて、つまらぬ句も面白いと考えているような場合もあります・・・・(P51)」
今の自分の俳句はこれの連続なのかな。

なんとか、花鳥諷詠の名句を創りたいものだと考えている自分に入ってくる虚子先生の言葉。

「・・・名句を得ようと努力しても、必ずしも名句が得られるものではありません。その名句を得ようとする苦心が重なり重なって、何時の間にやら天から授かるように、ふと名句が出来ているというのが結局の境地でありましょう(P60)」

早く天から授かりますように(笑)






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