不知火や咥え煙草の運転手
俳句ポスト 第83回兼題 不知火 で、「人」に選んで頂きました。
これで4週連続の「人」確保。嬉しい。

そもそも「不知火」という季語。
実態があるのか無いのか、少なくとも自分は見た事は無い。 
こうなると頭の中で作る妄想俳句ですね。
で、そんな時に俳句らしくさせるには湘子先生の配合の句パターン1

角川学芸ブックス 新版 20週俳句入門
藤田 湘子
角川学芸出版
2010-04-21


型・その一
①上五に季語を置き、「や」で切る。
②下五を名詞止めにする
③中七は下五の名詞のことを言う。
④中七・下五はひとつながりのフレーズである・
⑤中七・下五は、上五の季語とまったくかかわりない内容である (P102)


これは今まで何度も何度も見てきたテキスト。
とは言え、これを読んでいる時の自分のレベルに応じて毎度理解が変わっているような。
今回は特に⑤の掟(笑) 「・・・まったくかかわりない内容・・・」
そうでしたそうでした。
何度も読んでいるのに実作していると、ついつい忘れてしまう。
或いは季語に引っ張られてしまう。

今まで「並」になっていたのは、中途半端な配合の句が多かったような気がしてきた。
今回の季語「不知火」はそもそも解らないので、影響されにくかったのが良かったか?

自分の中のイメージとしては、長距離トラックの運ちゃんが煙草を咥えながら海沿いの峠を走っているという設定(笑)
出来ればその運チャンには白いタオルのはちまきをしていて欲しいかな。
で、窓を開けた遠景に浮かぶ不知火って絵なのでした。

実際に見た景色では無いので、特に言いたい事も伝えたい事も無いわけで(笑)
なんか、まだ上手く言語化出来ないのだけど、この辺りに俳句作りの神髄というかヒントがあるような気がしてならない。
自分の言いたい事を言いたければ俳句という型を選択するなと、先人の言葉。

では、何をしているのかと言う問いに、うまく答えているのが湘子先生の後継者の小川軽舟だ。



ずっと湘子様のテキストを読み続けていたので、弟子の小川軽舟の話はすっと入って来る。
この本の内容は全編腑に落ちる。
特に第6章を読んだときに自分中で一つに繋がった。

それでは俳句は読み手にどう働きかけるのか。俳句は読み手に何かを「思い出させる」という言い方が。私には一番しっくり来ます。(p63)

これって、私が常々考えていたことで、うまく表現してくれたものだと感心。
(どっから目線だ(笑))
そして、さらに続けます。

頭の中の抽斗にイメージが入っているとします。俳句は作者の抽斗のイメージをそのまま読者に届けられるものではありません。俳句とは読者の頭の中の抽斗を開ける鍵のようなものです。俳句は「伝える」のではなく、この鍵で抽斗を開けてもらうものなのです。(p64)

これだよ!これこれ!と思わず叫びそうになってしまった。
認知言語学からのアプローチやエリクソン催眠からのアプローチでも説明が着く。

去年の7月から「フォト×俳句」をはじめて、ようやく俳句に対する答えの一つが見つかった感じ。
俳句は「脳の鍵」なんですよ。
なので十七音で十分。
それ以上長くなってしまうと、逆に鍵として機能しなくなっちゃう。

今回の私の俳句に戻って説明すれば。
「不知火」「咥え煙草」「運転手」この三つが鍵の中身。
季語というのは、日本人にとってのマスターキーみたいなものと考える。
「咥え煙草」にしても「運転手」にしても、なにかしらの個人の体験の中には存在しているわけで。
それらの体験を呼び覚ます鍵が俳句。
とすると、俳句を作る俳人と呼ばれる人達は「鍵職人」だと言い切ってしまおう。

そして多分、この作句プロセスの背景に自身の感動や発見が入り込むようになると完成なのかも。

さらに・・・
「フォト×俳句」はここに写真が加わるってのがミソで。
さてさて、そこの構造はまだ上手く説明は出来ないんだな。
この句に付ける写真が全然手元にないので、最近の写真をとりあえず合わせておきましょう。


・・・・ここまで一気に書いて、随分とすっきりしたぞ(笑)




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