こんな写真×詠んでみた

2013年7月突如出会った新しい芸術表現。 写真と俳句をコラボさせた 「フォト×俳句」 どちらも全くゼロからのスタートです。 作品作成のプロセスや結果を徒然なるままに・・・

2014年07月

不意に名を呼び捨てらるるソーダ水
俳句ポスト 兼題「ソーダ水」の火曜日で添削していただいた作品。
なかなか「並」から抜ける事が出来ずに苦しんでいるのですが。
ってか、別に苦しくは無いけど(笑)
誰よりも添削して貰っている回数が多かったりして(爆)

文語の言葉に関して繋いでいく仕組みがイマイチ理解出来ていない。
組長(=夏井いつき先生)の解説は一応こちら ↓

2014-07-04_0954
 
中七の言葉が組み立てられなかったんだけどね。
もともとは「呼び捨てされし」からスタート。
これが「呼び捨てらるる」になるらしいのだけど、このプロセスがイマイチ理解出来ていない。

「呼び捨て」→「呼び捨つ」になって、そこに「らる」を取っつけるのか?
「らる」が助動詞でこれが連体形になると「らるる」に化ける。

自分の理解が不足しているのは、活用表の見方?
動詞の「捨つ」に助動詞の「らる」が結合する時のメカニズムがまだ理解出来てないって事か?

く~っ・・・・ これじゃあ「並」以下だな (泣) 


[写真解説とデータ]
カメラ:LUMIX TZ60
露出時間:1/250
絞り:
F値:f/5.8
ISO:400
WB:自動
露出プログラム:絞り優先 
露出バイアス:±0


 
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演出に身を任せきる七変化
やっぱり紫陽花を絵には朝露が似合うと勝手に思っている。
昨日の紫陽花の絵と比べるとやっぱり、こっちの方が『らしい』 。

この『らしい』というところがミソかなぁ。
何がと言えば、季語の理解というか使い方というか。
季題に対する扱いでも良いかな。

つまり、多くの人が『らしい』と感じる事が出来る経験値を呼び起こすトリガーが季語。
というのが今の自分の理解。

で、これって省略すればするほど多くの人の体験を呼び起こす事が出来る。
なので俳句は省略の文学と呼ばれるのだろう。
そうなると、それを作句する側は極めて常識人である必要があり、かつ極めて卓越した表現者である必要がある。

で、「フォト×俳句」なんだけど。
やっぱり過去の様々な人が作った作品を眺めてみると、今日のもののように季語が直接写ったものは少ない。
それは俳句が写真の説明になることを極力避けるからだと思う。

「フォト×俳句」の表現は、俳句と写真の両者があることによって閉じてしまっては意味が無いのだと思う。
閉じるという表現になってしまうのだが、つまりもともと俳句も写真も鑑賞する人の自由な想像を呼び起こすものであるのに、それが限定されて(これを閉じると表現してみた)しまったのであダメということ。

中谷先生は、写真と俳句のコラボとか響き合いとかいう表現を使う。
「閉じる」の逆を指しているのだと思う。つまり「開く」ってところかな。
去年の選手権の吟行句の公開選考会でにマブソンさんは、誰よりそこに拘っていた。


で・・・・?
なんか、これを書き始めると自分の中でも答えがなくてグルグル回る。
まだまだ実作経験が足りないのだと思う。
ただ言えるのは、「フォト×俳句」は面白いってことかな(笑)


[写真解説とデータ]
カメラ:RICOH GR
露出時間:1/640
絞り:3
F値:f/2.8
ISO:400
WB:自動
露出プログラム:絞り優先 
露出バイアス:±0





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