演出に身を任せきる七変化
やっぱり紫陽花を絵には朝露が似合うと勝手に思っている。
昨日の紫陽花の絵と比べるとやっぱり、こっちの方が『らしい』 。

この『らしい』というところがミソかなぁ。
何がと言えば、季語の理解というか使い方というか。
季題に対する扱いでも良いかな。

つまり、多くの人が『らしい』と感じる事が出来る経験値を呼び起こすトリガーが季語。
というのが今の自分の理解。

で、これって省略すればするほど多くの人の体験を呼び起こす事が出来る。
なので俳句は省略の文学と呼ばれるのだろう。
そうなると、それを作句する側は極めて常識人である必要があり、かつ極めて卓越した表現者である必要がある。

で、「フォト×俳句」なんだけど。
やっぱり過去の様々な人が作った作品を眺めてみると、今日のもののように季語が直接写ったものは少ない。
それは俳句が写真の説明になることを極力避けるからだと思う。

「フォト×俳句」の表現は、俳句と写真の両者があることによって閉じてしまっては意味が無いのだと思う。
閉じるという表現になってしまうのだが、つまりもともと俳句も写真も鑑賞する人の自由な想像を呼び起こすものであるのに、それが限定されて(これを閉じると表現してみた)しまったのであダメということ。

中谷先生は、写真と俳句のコラボとか響き合いとかいう表現を使う。
「閉じる」の逆を指しているのだと思う。つまり「開く」ってところかな。
去年の選手権の吟行句の公開選考会でにマブソンさんは、誰よりそこに拘っていた。


で・・・・?
なんか、これを書き始めると自分の中でも答えがなくてグルグル回る。
まだまだ実作経験が足りないのだと思う。
ただ言えるのは、「フォト×俳句」は面白いってことかな(笑)


[写真解説とデータ]
カメラ:RICOH GR
露出時間:1/640
絞り:3
F値:f/2.8
ISO:400
WB:自動
露出プログラム:絞り優先 
露出バイアス:±0





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